「勉強は才能か努力か」みたいな議論をよく、よく聞きます。
こうした議論の腹立たしいところは、
- 言葉が定義されておらず、噛み合っていない
- そのくせ、大人がドヤ顔で語りたがる
- クソみたいな議論なのに、子どもの進路に大きな影響を与える
ということです。
私も、大人の吐瀉物のような議論に惑わされて、藝大進学を諦めた経緯を持ちます。
そして今でも、この「才能」論に振り回される事態が世に頻発していることが辛いのです。
ただ、文句ばかり言っていても仕方がないので、一石ぐらいは投じてみたいと思います。
この記事が、「将来の夢」を拾い直すためのきっかけになることを期待します。
絶妙な詐欺ワード:「才能」
そもそも、「才能」という言葉はあまりに軽率に使われすぎています。
先ほどの「才能か努力か」論争でもそうですし、”少し特殊な人”を持ち上げるための便利な言葉としても、アーティストが「天才営業」をするためのキャッチコピーとしても、嫌気がさすほど使用されています。
なぜ、こうした「才能」のような言葉が多用されるかというと、
- 多くの人々が「なんかすごそう」と思ってくれる
- そのくせ、多くの人々は具体的な意味を考えようとしない
という2つの条件をクリアしているからです。
これらの条件は、多くの人に「すごい人だ!」と思わせ、さらにそれが「詐欺にならない」ために必要なのです。
そもそも「詐欺」とは
ここで、「詐欺」についてもう少し詳しく見ましょう。
「詐欺になる」とは、誰かに「嘘の情報」を与え、その人に「嘘の情報」に基づいた判断をさせ、裏切ることです。
例えば、「この薬を1日1回飲むと、全てのガンが治ります!」とガン患者に嘘の情報を与えたとします。
そのガン患者は、嘘の情報に基づいた判断をし、その薬を買って毎日飲みました。
しかし、ガンが治らず、患者は裏切られました。これは詐欺です。
「才能」は絶妙に「詐欺にならない」
それに対して、「才能」という言葉は、絶妙に「詐欺にならない」のです。
例えば、何もすごくない人を、事務所の謎の力で「なんかすごそうな人だよ!」と世間に売りこんだとします。
この場合、「すごい人だよ!」と言ってしまうと詐欺になりますが、「すごそうな人だよ!」というと、詐欺にはなりません。
「すごそうな人」という表現には、「すごそうだけど本当はすごくない」可能性も含んでいるからです。
もし仮にすごくなかった場合は、「いやだから、すごそうって言ったじゃん」という言い逃れが使えます。
騙されていることに気づきにくい
ここで登場するのが、条件2:「多くの人々は具体的な意味を考えようとしない」、です。
大事なのは、具体的な意味が「分からない」のではなく、そもそも「考えようとしない」という点です。
脳がバカなのではありません。
むしろ、貴重な時間を浪費しないように、脳が思考を節約した結果、そうなるのです。
この世の中で、「才能」という言葉はあまりに多く使われすぎています。
「才能」という言葉に出会うたびに、「これは本当にすごいのか?」と毎回考えこんでしまっては、それだけで1日が終わってしまうのです。
人間の脳は、そうした事態を避けるべく、「よく分からないが、とりあえず信じてみよう」という風に動くのです。
ですので、その誤解が解ける数年ほどの間、その人は「すごい人」として思い込まれることになります。
正直、数年もあれば十分です。
「すごい人」として思い込まれた場合、「すごい人」として成長できる機会が舞い込んできます。
その過程で、本当に「すごい人」に成長できれば、「すごそうな人」という言葉は詐欺にならず、「ね?本当にすごかったでしょ?」と堂々と宣言することができます。
でも、これはあくまで騙されていることに「気づきにくい」だけです。
ほとんどの人が思考を節約するために考えないことを、あえて立ち止まって考える。
そうすることで、騙されていることに気づきやすくなります。
これがこの記事の本論になります。
「才能」という言葉を考え直す
立ち止まって考えるべきは、「才能」という言葉です。
私たちは、一体どういう意味合いで「才能」という言葉を使っているのでしょうか。
私たちはニュアンスで言葉を覚える
この場合、辞書を参照することに、意味はさほどありません。
会話の最中に、辞書に書かれた意味を思い浮かべながら言葉を話すわけではないからです。
私たちはもっとニュアンスで言葉を使い、何となくの意味を思い浮かべて過ごしています。
このニュアンスを構成するのは前後の単語、ざっくり言えば、その言葉が含まれる文です。
例えば、「ブニャンガギギー」という言葉があったと仮定します。
この言葉は初耳なので、当然意味など知りません。
しかし、ニュース番組を見ていると、アナウンサーがこう伝えているのを聞きました。
「35歳無職の男が、幻覚作用のあるブニャンガギギーをサイパンから密輸し、反社会的勢力に融通していたとして逮捕されました…」
この文を聞くだけで私たちは、
「ブニャンガギギーというのは、何か違法で危ない、覚せい剤みたいなやつだな」
と推測できます。
私たちは辞書を引くことなく、その言葉の意味を何となく分かっていくのです。
「才能」の用例を観察する
「才能」という言葉の意味についても、先ほどの「ブニャンガギギー」と同じように推察することができます。
私たちが「才能」という言葉を認識するきっかけとなった文章を特定し、そこまで遡って考えることで、「本当はどのような意味で使っているのか」がわかるのです。
注意すべきは、きっかけとなった文章は人によって違うため、どの範囲までを「才能」と呼ぶかは人それぞれである、という点です。
以下では、もっとも広そうな定義から、もっとも狭そうな定義へと順に分析を行います。
(広そうというのは、私の想定していない定義があるかもしれないからです。しかし恐らく、相当多めの可能性を拾えているとは思います。)
用例はtwitterで「才能」と検索して表示されたもののみを引用します。
用例1:「字がキレイってそれだけで才能よね」
字がキレイってそれだけで才能よね
— カルメ焼き (@kitakamihshs) August 9, 2018
この文例をもっとも広い定義で捉える場合、「才能」とは「自分にはない能力」を意味します。
字がキレイじゃない自分が、誰かのキレイな字を見たとき、「字がキレイって才能だな」と言葉を発するわけです。
もし自分の字がキレイだと思っていた場合、「字がキレイだと見やすいよね」とか「字がキレイだと人生得する」のような表現はされることがあっても、「才能」という言葉は出てこないでしょう。
ただし、これはもっとも広い定義で「才能」という言葉を捉えたときの話です。
中には、「自分にない能力」ってだけで「才能」と呼ぶのはあまりに雑すぎる、と感じる人もいるでしょう。
人によっては感じる違和感を解決するのが、次の分析です。
用例2:どんなに努力しても才能ある人間には敵わない
どんなに努力しても才能ある人間には敵わないってね
特に絵描こうと思う度に毎回思う— ナゥ?? (@P_R_K_S) October 6, 2018
この文例の場合、「才能」とは「努力では獲得し得ない領域」となります。
この定義は、前の定義と比べると狭くなっています。
なぜなら、「ユーキャンのボールペン字講座を受け、キレイな字を書けるようになること」は、前の定義では「才能」でしたが、今回の定義では、「努力によって得た能力」にすぎず「才能」ではなくなるからです。
なお、ここでの「努力」の定義を広めに述べておくと、
努力とは、「自分の考えや方法論によって意識的に行われる、現実を理想に近づけるための行動」と言えるでしょう。
「考えや方法論」というのは、例えば「ユーキャンの講座を受けてみよう」などの行動上のアイデアなどを意味します。
「何も考えずただがむしゃらにやる」というのも、ある意味では方法論に入ります。
用例3:説明できないときに出てくるのが、才能
自分がそれをできる理由を説明できないときに出てくるのが、才能とかいう謎の概念というだけのことです
— 碌星らせん(Rokusei Rasen) (@dddrill) September 27, 2018
この文例では、「自分で言語化できない能力」が「才能」の定義になっています。
この定義は、先ほどの「努力では獲得しえない領域」という定義よりもさらに狭くなります。
例えば、「幼少期に良い家に育ったこと」や「実家が金持ち」や「美人に生まれたこと」のような先天的な能力は、「努力では獲得しえない領域」ではありますが、「言語化できない能力」ではありません。
用例2の定義には該当しますが、用例3の定義には該当しないのです。
この「説明できないものを才能と呼ぶ」定義の場合、
「才能」という言葉は、能力の「その他」的要素をかっこよく表現したものになります。
「よくわかんないやつ」と呼ぶのはアホっぽいので、「才能」と表現するのです。
定義範囲のまとめ
以上にあげた3つの定義を整理すると、
- 「今の自分にはできない能力」を才能と呼ぶ。(これが最も広い)
- 「身につけ方が不明な能力」を才能と呼ぶ。(これが平均値?)
- 「言葉にできない能力」を才能と呼ぶ。(これが最も狭い)
という風になります。
上に行くほど広くなり、下に行くほど狭くなります。
「才能」という言葉の「主観性」
しかしこれらの3つに共通する性質があります。
それは、「今の自分にとってどうなのか」が判断基準になるということです。
1つ目の場合は、今の自分にそれができるかどうか。
2つ目の場合は、今の自分に方法が分かるかどうか。
3つ目の場合は、今の自分が言葉を知っているかどうか。
これらは、今の自分が判断基準であり、非常に主観的です。
「才能」という言葉が多くの人々の、特に進路に迷う人々の心を折ってきたのは、この部分。
つまり、「本当は主観的なのに客観的なフリをしている」部分なのです。
「君には才能がない」の正確な翻訳
「才能」という言葉を用いて、人の心を折ってくださいという問題があったとします。
模範解答こそ無いですが、最も多い解答例は「君には才能がない」になるでしょう。
でも、私たちにはこの言葉に対する対抗策があります。
心が折られる前に、疑ってみるという対抗策です。
これまでの検討で、様々な「才能」の定義を得ることができました。
- 「今の自分にはできない能力」=才能
- 「今の自分には身につけ方が不明な能力」=才能
- 「今の自分には言葉にできない能力」=才能
今度は、これらの定義を、一つずつ「君には才能がない」という言葉に入れてみます。
すると、こんな感じになります。
- 「君には私にできない能力がない」
- 「君には、私にとって身につけ方が不明な能力がない」
- 「君には、私が言葉にできない能力がない」
同じ意味を保ったまま、日本語として自然になるように言い換えると、
- 「君の全ての能力を、私も全て持っている」
- 「君の全ての能力は、私もやろうと思えば全て手に入る能力だ」
- 「君の全ての能力は、私の言葉で説明できる」
ということになります。
ここでもう一度考えてみたいのです。
これらの文章を読んだだけで、進路を変えたりだとか、夢を諦めたりする理由になるのでしょうか?
1.「自分は上位互換だ」という傲慢さ
例えば1つ目の翻訳は、「君の全ての能力を、私も全て持っている」というものでした。
もっとざっくり言えば「私はあなたの上位互換だ」という意味になります。
確かに、本当に上位互換だった場合は夢を諦めたりする理由になるでしょう。
上位互換の人でも夢を叶えられていないのだから、下位互換の人は絶対に叶わない、と。
しかし、本当に「上位互換」だということは決してあり得ません。
人間の行動とはそもそも、時間と資産を交換する行為です。
時間を使って能力を得たり、時間を使ってお金を稼いだり、時間を使って誰かとの関係性を築いたりするものです。
交換するということは、「資産」が手に入る代わりに、「時間」を失うということです。
よって、どんなに「君は才能がない、諦めろ」と説教している人でも、上位互換にはなれません。
説教している人の残り時間は、説教されている人の残り時間より、必ず少ないからです。
2.やろうと思えばできた症候群
2つ目の翻訳は、「君の全ての能力は、私もやろうと思えば全て手に入る能力だ」というもの。
いわゆる、「俺だってやろうと思えばできたし」というものです。
そもそも、この文章から「だから諦めろ」へは論理が繋がりません。
例えば、
「俺もやろうと思えば甲子園に行けたんだ、だからお前はメジャーリーグでは通用しない」
こんな文章、支離滅裂以外の何ものでもないでしょう。
「だから」という接続詞に謝ってほしいレベルです。
そして最も大きいのは、この人は「できる」と「できた」の違いが分かっていない、ということです。
この2つの間に存在するのは、行動に移すまでの勇気と、行動中の苦難に耐え忍ぶ根性と、自分はやり抜けるという信念です。
技術的な面でも、「できると思っていたのにできていない」自分を分析すること、「できるようになる」メニューを考案すること、実際の行動日程に落とし込むスケジューリングも必要です。
「できる」と「できた」の間にはあまりに大きいギャップがあるのに、それらを認識していないで説教を垂れている時点で、ものすごくヤバい奴です。
本当に、聞かなくていいです。
(多少感情を込めて書いているのは、体感的にこのタイプが一番多いからです。)
3.どうせ〇〇でしょ
最後の翻訳は、「君の全ての能力は、私の言葉で説明できる」でした。
もういよいよ、夢を諦めることと関係がなくなります。
説明できるかどうかという問題と、実際に叶うかどうかという問題は別の問題だからです。
例えば、GAFA(Google,Amazon,Facebook,Apple)と呼ばれる世界的大企業がなぜ成功したかというのは、その全てを説明できるわけではありません。
分析本や数々の自伝は出版されていますが、それらは事象の説明のほんの一部でしかないのです。
でも、実際に成功しています。説明できなくとも成功はし得るのです。
実現において説明が密接に関わってくるのは、「再現性」を求める時です。
この時ばかりは、どうして実現できたのかを詳細に説明し、将来の自分、もしくは他人が同じプロセスを踏むことで同じように実現できるようにしなければなりません。
これまでの「科学」がそうやって「再現性」を確保して発展してきたように、
説明のつかない事象に対して、言葉によって肉薄していくことは非常に価値のあることです。
しかしそれは、自らの用いる言葉にはやはり、世界を説明するには不十分だということを意識しなければ、決して成り立たない営みです。
言葉によって説明しながらも、本当は説明しきれていないのではないかという疑いを持ち続けることでようやく、新たな言葉が生まれ、他人と共有できる知識の幅が広がっていくのです。
もしそうした、言葉の不十分性に関する意識のないまま「説明」をしたならば大変なことです。
それは、「どうせ〇〇でしょ」とだけ吐き出し、全てに対し分かったような顔をするモンスターの出現です。
このモンスターは、本当は何か新しいことがあったとしても、手持ちの古い言葉のうち、最も近そうな言葉をレッテルとして貼ります。
そしてその張った言葉で「どうせ〇〇でしょ」と言い放ち、思考を停止します。
このモンスターが大好きなのは、何にでも貼れる「その他的」な言葉です。
能力に関する「その他的」言葉が、これまで論じてきた「才能」という言葉です。
蛇足になりますが、組織の行動原理に関する「その他的」言葉は、「陰謀論」という言葉です。
本当は単なる経済原理に従った行動なのに、「フリーメイソンの陰謀が〜」と言ったり「ユダヤの血縁が〜」などと言ったりしてしまうのです。
よって、「君には才能がない」という言葉には耳を貸さなくて良いということがわかります。
結局才能とは何か
さて、ここまでは「才能」という言葉の主観性に着目し、それが他人によって使われた時にチグハグな意味合いをもつことを明らかにしてきました。
今度は、その言葉の主観性を、自分で使った場合について考えていきます。
自分視点で「才能」という言葉はどのような意味合いを持つのでしょうか?
才能は努力で削ることができる
才能の定義はこのようなものでした。
- 「今の自分にはできない能力」=才能
- 「今の自分には身につけ方が不明な能力」=才能
- 「今の自分には言葉にできない能力」=才能
それぞれの定義には「今の自分には」という接頭辞がついたわけですが、
この定義を自分視点で考えた場合、このようなことが言えるわけです。
- 自分にできることが増やせば、「才能」は減らせる
- 身につけ方を知れば、「才能」は減らせる
- 能力に名付けることで、「才能」は減らせる
あくまで「才能」という言葉は主観的な言葉なのですから、自分自身が変わってしまえば、何を「才能」として捉えるかを変えることができるのです。
どの定義を採用したとしても、どんな能力なのか名前をつけ、身につけ方を知り、自分にもできるようにすることで、「才能」と呼ばれる領域を減らすことができます。
こうなってしまえば、「才能」という言葉はほとんどの場合、単なる「知識不足・実験不足」にすぎない、ということになります。
なぜなら、名前を調べたり方法を調べたりするだけで、才能の領域は縮小します。
それを自分で実践するだけで、さらに才能の領域は縮小していきます。
「才能」という言葉に対する絶望的な気持ちはもうありません。
才能という言葉の大部分は、Google検索とちょっとの勇気で打ち倒せるのです。
才能の大部分は、努力で削ることができます。
努力で削れない才能とは、時間である
でも、才能の全てを努力で削れるかというと、そうでもありません。
名付け・方法論・実践によって削れたとしても、最後に残ってしまう「才能」の部分が存在します。
それは「時間」です。
例えば、自分に与えられている時間が無制限だったとしましょう。
その場合、全ての欲望が叶います。
たとえ何の能力を持っていなかったとしても、ただひたすらに検索し、名前をつけ、実践することで全ての才能を身に付けることができます。
なんせ、時間は無制限なのですから、1億通りの方法があるなら1億通りやればいいのです。寿命は5000兆年以上あるのですから。
でも現実にはそんなことはありません。
自分の体にも「寿命」という時間制限がありますし、夢の中には「期限」という時間制限があるものもあります。
こうした時間制限のせいで、名付け・方法論・実践ができる数が限られてしまうのです。
こうなると、「才能」があるかないかで夢が叶うかどうかが変わってきます。
才能とは結局、目標に対してどれだけ近い位置で物事を始められるかを意味します。
夢に時間制限が設定されているせいで、近い位置から始めないと叶わないタイプの夢、というのが発生してきてしまうのです。
才能か努力か論争の結論
極論は決して言えません。
「才能でしか決まらない」とも、「努力でしか決まらない」とも言えません。
それは、ここまでの議論を見れば、もはや明らかでしょう。
才能とは目標に対して無意識的に節約できた時間であり、
努力とは目標に対して意識的に積み上げた時間です。
つまり、「才能か努力か」というのは成り立ちません。
どちらも、目標を達成する上で役立つものであり、どちらかしか許されないタイプのものではありません。
結局は、「どれだけ頑張らなければいけないかは、目標によって決まる」という当たり前の結論に達します。
例えば、「誰もが憧れる分野でNo.1になる」という目標。
これには「才能」が不可欠でしょう。
競争が激しいために努力では差がつきにくく、No.1を決める段階では「才能」の差で決着がつくことが頻繁にあるからです。
こうした目標について、「努力でしか決まらない」とは、口が裂けても言えません。
しかし、目標の定員が多めだったらどうでしょうか。
東大に合格するだけなら毎年3000人受かります。
作曲家になるのだって、日本に作曲家は3万人くらいいるのです。
首席になるとか、売れっ子になるとかなら別ですが、なるだけなら達成できる目標も多いのです。
この場合は、「才能でしか決まらない」というのは全く成り立ちません。
さらに、定員関係なくある程度のレベルに達すればOKというような目標なら?
「ピアノを弾けるようになりたい」という目標なら、そもそも誰かと争わなくて良いのです。
もちろん寿命とは要相談ですが、70歳からピアノを習い初めても、5年から10年はピアノを練習することができます。
小さい子に比べれば上達は遅いかもしれませんが、それでもある程度は弾けるようになるのです。
この目標を、「私には音楽の才能がないから」といって諦めるのは、あまりに悲しいことです。
あなたの目標はどのタイプの目標でしょうか。
そしてそれは、才能がないからといって可能性がゼロになるような目標でしょうか。
終わりに
全ての夢が叶うわけではありません。
もし叶わなかった時に、「自分にはできなかったんだな」と明確に諦められたら、それはそれで価値があります。
しかし、自分が思っているよりかは、夢は叶います。
「才能」という言葉を誤って受け取ったせいで、「本当はできるのにできないと思ってしまう」夢が多すぎるからです。
もし諦めていた夢があるなら、情報収集ぐらいから始めてみましょう。
「なんでできないって思ってたんだろう」、ときっと思うはずです。
それでは。