twitterを見ていて最も遭遇するのが、存在しない意見に反論する憤りツイートですよね!
今回はそんなツイートをしている人の知性の限界について考えてみたいと思います。
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わら人形論法とは
本題に入る前に、「わら人形論法」とは何か確認しておきたいと思います。
(以下に挙げる例は、現実とは無関係です。もし仮に、よく似たケースが現実に存在していたとしても、以下の説明は「わら人形論法」とは何かを説明するために、一方の意見の正確さを意図的に下げる形になっています。現実世界のよく似たケースの主張者の知性は、以下の主張よりはるかに高く私よりも何段も上であると思います上、念のため。)
例えばこんな論法。
その意味では、この世の全ての人は学問を修めようとしているんです。
A氏は、ミス東大は学問に対するリスペクトが皆無だというが、ミス東大は人じゃないとでもいいたいのでしょうか?
B氏の反論のうち、青くハイライトした箇所があります。
そこが、わら人形論法の典型例です。
なぜこれが、わら人形論法にあたるのか説明します。
まず、A氏はあくまで、「ミス東大に学問全体へのリスペクトがものすごい人が出てほしい」と言ったにすぎません。
「ものすごい人が出てほしい」と言っただけなので、「ものすごくはないけど、それなりにリスペクトしているミス東大」のことを否定している訳ではないのです。
しかし、B氏はこの部分を取り違えます。
A氏がそれらを完全否定していると取り違え、「A氏は、ミス東大は学問に対するリスペクトが皆無だ」と言っている、と主張するのです。
なぜこのように取り違えるのかというと、そちらの方が反論が簡単だからです。
「リスペクトがものすごい」ことを証明するのはものすごく難しいです。定量的に表せませんし、様々な社会的評価が必要になるからです。
しかし、わざと「リスペクトが皆無だ」と取り違えれば、ほんの少しだけリスペクトがある証拠を、たった1つだけ出すだけで反論が可能になります。
具体例の場合、「生きているだけでリスペクトがある」という軽微なものであっても、反論にできるのです。
わら人形論法の手順は以下の通りです。
反論したいが歯が立たない意見があったら…
- 相手がひどいことを言っているように、わざと取り違える
- その「ひどい部分」について、真っ当な反論をする
- 自分が正しいように演出する
本題:わら人形論法の少し上が、その人の知性の限界
さて、「わら人形論法」がどんなものかわかったところで本題です。
私は主張します。「わら人形ツイートの少し上が、その人の知性の限界」です。
”タイトル映え”したいがために少し簡略な表現をしたので、より正確に言えば、
わら人形論法を使いツイートする人が、組み立てることのできる論理の正確さは、使用したわら人形論法に反論できる程度が上限である。
ということです。
ものすごく雑に言えば、Lv.3のわら人形論法を使って憤っている人の知性は、Lv.4が限界ってことです。Lv.10のわら人形論法を使う人の知性の限界はLv.11です。
この法則は、以下3つの性質によって導かれます。
- わら人形論法は、反論する人が反論できなければならない
- ツイートのあいまいな部分は、反論する人が解釈を決める
- 反論する人はなるべく高い知性を論破したい
一つずつ説明を加えていきます。
1.わら人形論法は、反論する人が反論できなければならない
このルールは、わら人形論法の特性から自然に導出できます。
わら人形論法とはそもそも、「相手の意見に反論するため」に用いられるものです。
つまり、わら人形論法を使う人が、そのあとで反論できないと意味がないのです。
以下の証明では、「反論するー反論される」の関係について、完備性と推移性を仮定します。
完備性の仮定は、「論理が2つあったら、必ず勝ち負けがつく(どちらかが論破し、どちらかが論破される)」ことを言います。
推移性の仮定は、「論理Aが論理Bに負けて、論理Bが論理Cに負けた場合、論理Aが論理Cに勝つことはありえない)」ことを言います。じゃんけんのような三すくみの関係が成り立たないということです。
そのような仮定をおくと、反論する人と、わら人形論法の関係は以下の図に表されます。

もっとも、知性は1次元上にとらえられるものではないし、完備性や推移性が成り立つものではないだろうという批判は正しいと思っています。
しかし、ことディベート的関係「論破する-論破される」において、勝ち負けのような完備性は存在するでしょう。
また、推移性についても、「わら人形論法」の使用者、という過程では成り立つと思われます。三すくみの可能性のある論法というのは、自らにとっても反論される危険が生じる構造です。反論者にとって、そのような高い位置にわら人形を設置するメリットはありません。よって、この話題においては推移性も成り立つと見ています。
2.ツイートのあいまいな部分は、反論する人が解釈を決める
この性質は、主にtwitterなどの、短文しか投稿できない場合について特に成り立ちます。
というのは、140文字しか伝えられないtwitterだと特に、その論理についてあいまいな部分が残るわけです。
例えば、ここまでの内容を140文字で伝えようとするとこうなります。
わら人形論法をツイートする人の知性って、その論法のレベルのちょい上らへんが上限なんですよ。ツイートって短文だからあいまいな部分が残って、それゆえ論理がどこまで精密かについて解釈の余地がたくさんある。そこをわざわざ、低い方に捉えるってことは、本人がそこまでしか理解できないんですよ。
抜け落ちている点は色々あります。「知性がレベルで表せるのか?」とか、「反論と理解の差には言語化能力が絡むのではないか」とか、「なるべく高いレベルの論を論破したいという欲求」とか…。
本人はそこまで考えているかもしれないのに、140文字ではそれを少ししか伝えることができません。それを額面通り「ほんの少ししか考えていない」ととるか、「実は考えているけど伝えきれていない」ととるかは、受け取り手次第になります。
よって、以下のようなことが言えます。
- ツイートした本人がどこまで考えているかには、様々な可能性がある
- 本人がどこまで考えているかどうかの解釈は、受け取り手が決める
これを図に表すとこうなります。

あとまで読んでここに帰ってきた方の中には、この条件は不要なのではないか?オッカムの剃刀しないの?と思った方もいるかもしれません。
しかしこれは必要な条件だと思います。というのは、発表者に与えられる時間や文字数が長くなればなるほど、この知性の可能性というのは狭まっていくからです。
論文や書籍など、十分に知性の可能性を狭めることのできる媒体では、図は以下のようになります。

この場合、反論する人の知性を特定することはできなくなります。
なぜなら、どの知性の可能性をとったとしても、反論者の知性に対して明らかに低いからです。この場合、わら人形論法をたとえ用いていたとしても、その人の知性の上限がその少し上である、とは言えないのです。
特定するためには、知性の可能性集合の中に、反論する人の知性までが含まれている必要があります。その意味で、この記事での主張は、ツイッターなどの曖昧性が多分に含まれる発表様式においてのみ、強く成り立つのです。
3.反論する人はなるべく高い知性を論破したい
この性質は、「情報としての価値」と「知性の誇示」の2点から主張できます。
「情報としての価値」とは、そこそこ有力な論を論破すれば、その論を信じていた人にとっては衝撃ですし、情報として価値を持つことになります。
有力な論になればなるほど信じる人は増えますから、なるべく高い知性の論を論破したくなるのです。
次に「知性の誇示」です。これは非常にSNS的な考え方が反映されています。
つまり、「高い知性を論破してやった」と自分のフォロワーに示すことで、自らの権威や発信力を高めるのです。自慢すると気分がいい、などの基本的な心理も働いています。
これらの素朴な性質により、「なるべく高く」の原則が成り立ちます。
図にするとこの通りです。
これらをまとめる
今まであげた3つの性質をまとめるとこうなります。

反論可能な範囲は、ツイートの知性可能性と、わら人形論法が存在しうる範囲の重複している部分になります。
そのうち、最も高いポイントが反論用に選ばれますから、図の青丸の位置になります。
そして、これは必ず、「反論する人自身の知性の限界」の少し下の位置になります。
よって、「わら人形ツイートの少し上が、その人の知性の限界」と言えるのです。
わら人形論法は使わない方がいい
わら人形論法は、自らの知性を誇示する格好の手段に見えます。
対立する相手を貶め、自らのフォロワーに「私は勝っている」と示すことができるように見えます。
しかし逆効果です。わら人形論法を使ったその瞬間から、その人の知性の限界は特定され、それ以上の評価を受けることはできなくなります。
これは、「かりそめの勝利」の代償としてはあまりに重いのではないでしょうか。
もし、自らの知性を誇示したいのであれば、以下の原則を重視するべきだと思います。
(もっとも、知性は誇示するものではなく、にじみ出るものだと思いますが…)
- 基本は共感する、もしくは何も言わずにリツイートする
- 得体の知れない事情がありそうなときは、反論しない方がいい
- なんなら、「この人にも深い事情があったのでは…?」と引用リツイートする
- 反論するときは、相手の知能をできるだけ高く見積もる
- 論戦して負けそうなら、「敢えて素直に負けを認める」。
また、わら人形論法を相手に使われたくなければ、できるだけ長い文章で精密に書くことが有効です。一部だけ切り取って反論する相手には、こう言い返すことができます…
「切り取って報じている時点で、それは私の意見ではなくあなたの意見だ」
(もっとも、完全に有効という訳ではありません。発信力にあまりに大きな差があるなど、相手にわら人形論法を許してしまう状況は数多く存在します。)
自分とは別の人生を歩んだ「他人」の考えを推し量るには、不断の努力が必要です。
相手があまりに軽率な反論をしていると思ったときは、高確率で相手を見下しています。
正確な反論をする際には、相手の立場を代弁するくらいにまで理解しなければならないでしょう。
それが出来ていない場合、反論相手は自分の設定したわら人形です。
勝った負けたの言い合いではなく、建設的な議論が行われることを祈っています。
終わり