雑記

道を踏み外しまくった東大生が、ブログを始めるまでの話

21歳の6月1日。丸の内線・本郷三丁目駅、東京へと向かう1番ホームで、リクルートの黒色に染まった友人とすれ違った。

私は、リュックサックに入った紙一枚の重い結論を背負い、本郷キャンパスに向かった。

紙一枚の重い結論

東大を休学してブログを始めることにした。

道という道を踏み外しまくって、とうとう、一人になったのかもしれない。

自己紹介がてら、ここまでのあらすじを、どうか聞いてほしい。

育児放棄

最初に道を踏み外したのは、たしか、5歳のころだったと思う。

親の都合でオーストラリアに移住していた私は、現地で母親の育児放棄にあった。

父親も家庭に関与することがなかったため、人間の家に住んでいることを除けば、ほとんど野生動物の扱いである。箱詰めされたインスタント食品とマヨネーズが、ほとんど唯一と言っていい生命線だった。袋に書いてある文字を一つも読めないまま、生命を維持するためだけに食べられそうなものを漁った。

私の人生最大の幸運は、祖父母に救出されたことである。

状況を知った祖父母は、裁判で母親から親権を勝ち取り、老後用の資金を切り崩して私を救出してくれた。1日に3食食べるという習慣を初めて知ったし、現地の私立小学校にも通わせてくれた。オーストラリアで英語を身につけたら将来の武器になるという理由で、慣れない現地での生活もしばらくしてくれた。私はそこで初めて、「父親」と「母親」の存在を知った。

それからの日々は、今までの遅れを取り戻すかのように、知的欲求が爆発した。祖父母がわざわざ日本から取り寄せてくれた公文式の教材3年分は、半年で役目を終えた。特にその時の私を魅了したのは、数学だった。言葉が少なかった私にとって、少ない導入のみで成立する多様な世界は、極めて美しく映った。通っていた小学校は小中高まで一貫だったため、数学だけ飛び級して高校の授業を受けた。(一方、体育ではコテンパンにやられた。ガタイの良い同級生ばかりだったし、ラグビーは足の速さを生かしてウィングを任されていたが、ほとんど何もしていないようなものだった。)

中学受験か死か

小学3年生の時、日本に帰ってきた。そこで待ち受けたのはカルチャーショックだった。

オーストラリアに住んでいた私にとって、日本語というのは家族の話す日本語だけである。今から思えば、その日本語はたいそう丁寧な日本語だったようだ。その言葉を普通だと思って小学校で話した私は、隣の子に「貴族」と呼ばれた。(ちなみにその後、祖先が本当に貴族だったと判明した。)

また、授業中に発言しては「いけない」ことに苦慮した。オーストラリアで解きまくった公文式のおかげで、授業で問われていることはほとんど分かっていた。唯一分かっていなかったのは、「分かる人?」という先生の問いかけの真の意味が、「できるだけ色んな人が手をあげられるように全体のバランスを見つつ、今まで分からなかったけど先生の授業のおかげで分かるようになったという顔で手を上げろ」という意味だと空気を読むことだった。授業中に手を挙げているのが私一人であっても、指されることはなかった。指されるのは後ろ指ぐらいであった

小4の時にはいじめが始まった。教師ぐるみで行われたいじめに対抗したのは、祖父母が立てた弁護士だけで、私自身の抵抗―図書館で読んだガンジーの非暴力不服従演説を引用すること―は無力に終わった。私にできたことといえば、その教師と生徒が行く地元の公立中学校に入らないよう、できるだけ入試の難しい中学校に入る、つまり中学入試に成功することだった。

幸いながら、中学入試の勉強は楽しかった。できることが正義の世界だったし、オーストラリアでの貯金を使えばほとんどの教科でトップクラスに立てた。それでいて自分に足りない課題点も常にあったから頑張る余地もあった。「公立中学に入ったら人生が終わる」という脅威と、「頑張る余地がある」という欲望があいまって、大橋のぞみがCMをしていた四谷大塚の全国統一小学生テストでは初代王者になった。(この記事ぐらいしか自慢できる場所がない。ここで自慢話の供養とさせてほしい。南無南無。)

しかしここでも、自分の欲求を重視して周りの道を省みない、私の悪しき習慣が発揮される。第一志望に自転車で通える地元の共学、第二志望に開成、あの東大合格者数No.1の開成を書いたのである。(塾の校長に三度確認された。算数オリンピックの決勝にも出たのに、数学では1 < 2だが、この場合は1 > 2であることを教えていただいた。分かってるっちゅうねん)

もっとも、私は当時の判断を非常に合理的だと思っていた。中学高校と6年間過ごす環境に女の子がいないなんて考えられなかったし、都内の学校にわざわざ電車で通うなんて、土日は筋肉痛になってしまうと思っていた。私は自分の欲求に素直に従い、そのために自分の能力を用いたのだが、周りからは「挑発」と取られても仕方がなかっただろう。

共学を寝て過ごし芸能界に足をつっこむ

お望みの共学に入って以降は、受験中に待望していた、素晴らしきクソみたいな暮らしが幕を開けた。(中学に入ってからようやく、日本語の下品な言い回しが身についてきた。)

クソみたいな初恋をし、クソみたいなゲーム漬けの日々を送り、学校の制服制度にクソみたいな反抗(犯行?)を働いた。正直、クソみたいに楽しかった。けれど、常に何かと戦っていた人間に特有の、「今は何とも戦っていない。どうしよう」という焦燥感が存在していた。

芸能記者のおっさんと出会ったのは、中2の頃だった。クソみたいに大好きだったゲームのファンイベントに参加した私は、そこで対戦した芸能記者と連絡先を交換した。夜な夜な一緒のゲームをプレイする仲ではあったが、そんな中、芸能記者の仕事をやってみたい、と言ってみた。中学生特有の、軽はずみな提案である。

思いの外、おっさんはその提案を受けてくれた。取材テープの文字起こしや写真の切り取りなどから始まり、取材に同行して写真を撮るなどの手伝いも任せてくれた。バイトと呼べるほどしっかりしたものではなかったが、それなりの「お小遣い」もでた。同席した取材に、テレビの世界の芸能人が目の前に現れた時の驚きは、本当に、半端がなかった。下品かもしれないが、真っ先に思ったのは「細っ、脚ながっ」だった。その次に思ったのは「そんなプロポーションしてんのに、マスクと帽子だけで芸能人なのバレないと思ってんのかよ」だった。

そんな、記者のおっさんと、道を外れた中学生の関係は突然幕を閉じた。もともとフリー記者だったおっさんは、契約を結んでいた週刊誌から人員整理を言い渡され失業した。

これが最後かもしれない」とおっさんは私に言った。涙が出るより先に、これまで聞きたくても聞けなかったことを聞いておこうと、何時間も話した。おっさんには息子がいたが離婚して親権を失ったこと、パパ代わりのことができて少し嬉しかったこと、芸能記者の仕事はお勧めしないということ、そして、新しく人事に就任した東大卒のペーペーに首を切られたという恨み節も。

最後のネット通話を終え、ようやく常人の道に戻ったかに思えた。

しかし私の脳裏に残ったのは、「東大に入ればあのおっさんすら解雇できる権力を身につけられるのか?」という疑問だった。

お祭り男はビリギャルの夢を見るか?

1の春、私は校内で落ちこぼれの地位に預かっていた。理由は明白で、夜に芸能記者の手伝いとゲームしかしておらず、昼の授業は(体育以外)全て寝ていたからである。

定期試験は惨憺たるものだった。試験日になると、その教科の試験が始まる30分前に教科書を開き、範囲の3分の1だけを完璧に覚えて33点分だけ正答し、赤点の30点以下だけをギリギリ回避するのが風物詩だった。答案が返される日には、ギリギリ回避したことを周りの友人に自慢していた。(その友人は最後まで自分の答案を隠し、誰にも見せることがなかった。小学校の時、自分の答案を周りに見せたことがきっかけで、いじめられるようになったかららしい。意外と似たタイプが母校にはいた。)

そこで問題だ。そんな赤点ギリギリ人間が「東大に合格するんで」といったら、周りはどんな反応をするだろうか?

意外なことに、先生は笑わなかった。少なくとも私の前では笑わなかったはずだ。あまりにも自信満々にいうものだからその勢いに気圧されたのか、ジョークとしてはあまりにも面白くなかったからかは分からない。だが一番笑っていたのは、知り合いの保護者なのは間違いなかった。

当時の私の学内での評価は、「文化祭の時だけ役に立つお祭り男」だった。芸能記者のおっさんのおかげで身につけた編集技術のおかげで、文化祭で上映できるレベルの映像なら、なんとか作ることができた。映像企画の映像を作り、残りのクラスメイトが周りの添え物を作るといった貢献度の配分だったから、編集明けの疲労で文化祭の打ち上げには行く気がしなかった。

屈辱だったのは、我が子の文化祭を一目見ようと訪れた、クラスメイトの親御さんの言いっぷりであった。誰の親だか判別のつかない状態で「あーあなたね!お祭り男は」と聞き慣れない挨拶をされ続ける意味は、さすがに鈍感な私でもわかる。用いられる文脈はきっとこうだ。

〇〇くん全国模試で1位何ですって!え?まああの子も素敵じゃない、お祭り男だし、学力だけじゃないわよ人間の尺度は。

進学校に我が子を入れるような教育ママであるなら、なおさら言いがちなセリフでしょう?

そしてさらに考えれば、親からそう言ってくるということは、その子供が、晩ご飯を囲む食卓でそういう風に話題にあげているということだ。こんなの、シャーロック・ホームズでなくとも簡単に推理できる。話題にあげてくれるのはもちろん嬉しいことだが、ばかにされているのは多少はシャクだ。

これで、私にとっての欲望と脅威が揃ったのだった。欲望はおっさんが残した疑問、脅威は周りからの評価だった。

こういった経緯があったので、志望校は東大しかあり得なかった。その足で東大の赤本と「東大の25ヵ年シリーズ」を津田沼の丸善で買い込み、問題の研究を始めた。はじめて解いた東大の答案はチンパンジー以下の正答率で、合格率は猿が適当にタイプライターを叩いてシェイクスピアを完成させるくらいの、つまりほとんど0%だった。なのでまずは、チンパンジーでも2割は正解できると噂の、センター試験を対策することにした。

高1でセンター試験の点数がある程度伸びてきたころには、東大の答案もチンパンジーからアウストラロピテクスくらいにまで成長していた。ここまでくればあとは穴埋め作業だった。本屋で良さそうな参考書を見つけては脳に取り込み、無料で受けられる河合塾の講座や、年会費だけ払っていた東進の自習室を使って勉強していた。

もっとも、私の努力は周りから見えることはそうそうなかった。同じ東進の校舎に通っていた人にはさすがにバレていたが、そのほかの評価はお祭り男のままであった。年に6回ある定期試験では最後の方まで低い得点だったし、授業中は内職してるか寝ているかだったので無理もない。

唯一垣間見えるのが学内模試だった。高2の秋、周りが修学旅行ボケから抜けきって受験対策を始める頃、学内模試で2位をとって私の受験勉強は終わった。アウストラロピテクスからホモ・サピエンスに進化してしまえば、あとは逮捕されないように服を着て試験会場に行けば良いだけである。服を着るとは、試験までの1年間、手ぬるいメンテナンスをするだけの簡単な作業である。

第一志望は東大、第二志望はストリートミュージシャン

3になってぼんやりと考え出したのは、今後の進路のことだった。東大に入ったら何をしようか、についてである。私は一体、何が好きでここまで生きてきたのだろうか?

ほとんど唯一と言っていい答えが、音楽だった。多趣味で2週間ごとに趣味が入れ替わるような私でも、唯一残っていた趣味が音楽を聴く事であり、音楽を作ることだった。小学5年生の時にPerfumeの音楽に出会ってから、パソコンでDTMをはじめてその再現に夢中になった。中学高校の時はニコニコ動画にハマり、ボーカロイドの黄金期にも触れていた。ただ、その時衝動で買った初音ミクのソフトは当時の力量では扱いきれず、本棚の奥でホコリをかぶっていた。

もう一回やってみよう、人生を捧げるならきっと音楽だ。そう思って、ホコリをはらってパソコンに初音ミクをインストールした。新しい作曲機材も、津田沼のPARCOに買いに走った。「東大に入って作曲家になること」が、こんなに道に外れた選択だったとは、その時思いもしなかった。

ドブの中で好きを仕事にする

案の定、東大に合格した2015年の春。やるべきことは決まっていた。新米の作曲家が仕事を受けるには、曲の需要が最も高い業界―つまり地下アイドル業界―で営業をし、なんとか掴んだ仕事を元に能力を組み立てるしかないと思った。サークルに入っている暇も、酒に入り浸ってる暇もなかった。スーツを新調し、ライブ会場に行き、名刺を渡す日々が続いた。人づての紹介でたどり着いた場所はものすごくダーティーな場所だったが、「新米なら仕方がないか」との認識で仕事を請け負い始めた。

その当時のダーティな現場は、作詞も作曲もできるプロデューサーがアイドルユニットを立ち上げて、スターダムを目指すという売り方が流行っていた。プロデューサー自身にもオモテのタレント性を持たせ、アイドルグループとしての魅力を上乗せする、というのが表向きの理由だった。

しかし実際は、私のような新米作曲家達が地下アイドル業界に入ってきたことを契機に、作曲の値段が下がり、「ゴーストライター」戦術が有効になっていたのが真の事情である。私の場合、当時未成年だったという制約もあり、取引上は少なからず不利な立場にあった。たとえそれがゴーストライター契約であったとしても、ノウハウはたまるから致し方がない、というのが当時の思考回路である。

私はそのような条件もあって、代表作をyoutubeなどにあげることもできず、粛々と「スーパープロデューサー」の黒子として業務を遂行していった。唯一の救いは、ライブで盛り上がるヲタクの方々を見ると、曲を作ってよかったという多幸感を味わえることだった。それ以外はものすごく、ダーティーな取引環境だった。50万円分の曲を作ったとしても、一度取り立てを逃すと、そのお金は「何も作らないスーパープロデューサー」様が浪費してしまう。慌てて取り立てに事務所へ向かったら、すでに事務所ごと逃げていた、なんてことはザラだった。

2016年の年の瀬、秋葉原と渋谷周りで行われる挨拶回りの忘年会をはしごし、とっくに終電も終わってシャッターが閉められた井の頭線の階段で、「これは持たない」と思った。

好きを仕事にするにも、方法は吟味しなければならないことを知った。

自分を実験台にする

大学3年生になってからは、あえて仕事をセーブするようになった。来た仕事は受けるが、こちらからは営業しない。空いた時間は、今まで読めなかった本を読んだり、新しいスキルに挑戦する時間に当てた。向こうからわざわざメールを送ってくれるような仕事は、こちらもやっていて気持ちが良いし、新しいことを知れる時間は「生きている」という感じがした。ぼんやりと将来を眺めつつ、(減っていく貯金残高も眺めつつ、)次の手を考えていた。

果たして就活はするのか? このまま作曲で行くのか? 他の選択肢もあるのか?

様々な可能性を考えた時、少しだけ、実験してみたいことができた。

このインターネット世界で、作れるモノを作りまくって生活できるのか?

これがこのブログの目的であり、私が実験台になって検証するテーマである。おそらく実験台として私は適任だろう。幸い道を外れまくった結果、ある程度技術的なカードもあるし、「東大生」でもある。向こう2年休学しても「新卒」のままだし、勝負できるだけの貯蓄もある。これで無理なら、この世には希望がないことを逆に証明できるので、それはそれで価値があると思った。

このブログの目的

このインターネット世界で、作れるモノを作りまくって生活できるのか?

これは実験だ。私でできたなら、他の人でもできるかもしれない。その時は、このブログが生きた歴史書として役に立つだろう。ブログのそれぞれの記事において、「再現性」が保たれるよう、最大限配慮するつもりだ。

これはドキュメンタリーだ。「そんなことできっこない」と思うバカを見るために訪れてくれてもありがたいし、純粋に応援してくれるならば、なおさら嬉しい。

21歳の6月1日。私はまた道を踏み外した。もうこの日には戻れない。

私は、この日にタイムスリップしたい、と思わないような将来にすることを目指します。

応援、何卒よろしくお願いします。

2018年6月2日 けいとけー